id:DocSeriさんがゲームの一部を処分されるということを聞き、いくつか貰うことにしました(芹沢さん、ありがとうございます)。
そのうち、ずっと買いたくても手が出なかった雷鳴版『トラベラー』が。
いやあ、ずっと欲しかったんですよこれ。
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英語版メガトラベラーの基本ボックスは持ってるので、雷鳴版を勉強してから読み直そうかと思ってます。
それにしても、Travellerに限らず、Call of Cthullhu,Warhammer,D&D,T&T, Shadowrun, Stomebringer, Rollmaster と、私が中学生の頃には既に入手しにくくなっていた海外ゲームの数々が版や形式を変えて翻訳出版されているのは、とてもありがたいものですね。こうして今の自分が旧版・新版比較をしつつ遊び方を考えられるのも、新しいモノが次々と市場に出ているからなわけで。
この流れを止めないようなことが少しでも出来ればいいと思っています。絶版になるたびに、自分のように10代ゲーマーが苦労する(商品が手に取れなかったり、手にとっても英語の壁にぶつかったり、遊び方のバリエーションをゼロから考えなければいけなかったり、先輩ゲーマーとの解釈の違いに戸惑ったり)は、ちょっと忍びない。
といっても、商品流通が強化される方向よりは(もちろんそれは大事だとは思いますけれど)、アマチュアの側としては、流通に見合うだけのゲーム文化を創ることのほうが重要だと思っています。長い目で見た遊び方(=運用)の普及を考えることを、もっと地道にしてゆきたいですね。
あ、ちなみに雷鳴版トラベラーは今でも定価で買えます。そのあたり誤解なきよう。
メヴィウスは有名ですね。一度現物を見てみたいと思っています。忍者話もほとんどフォローできていないですねえ。
少し趣向を変えてお話をしてみます。
たとえば、J-POPの音楽しか聴かない人も「音楽ファン」で、黒人音楽しか聴かない人も「音楽ファン」、そして演歌しか聴かない人、クラシックにしか興味がない人も「音楽ファン」なわけですね。ジャズでもいいです。
これが発展すると、さらに興味は細分化される。「ジャズはマイルスさえ聴いていればいいや」とか、「サザンと井上陽水を押さえなければ戦後のJ-POPは語れない」だとか、「バッハの全集を聴いて対位法を解ってからでないとクラシックは語れない」だとか、まあ色々あると思うんですよ。
しかし私が言いたいのは、それら排他的な宣言の是非についてではないんですね。そうではなく、そうした言説が時に成り立っても問題ないくらい、それぞれのジャンルが「音楽の市場」として成り立っていることなんですよね。もちろんご存じのように、それなりの行き詰まりはどの音楽ジャンルにもあるわけですがこの多様性の確保のされ方は、消費者の極端な嗜好すら許してしまうわけですね。
趣味の市場が豊かであるというのは、色んな嗜好や主張を許容し、なおかつそれぞれに一定の需要と供給の関係が維持され続けるような市場だと思っています。エロゲやラノベ、漫画がどのようであるかは私にはわかりませんし、音楽市場はそれこそネットの登場によって大規模な変革を迫られているわけですが、こと「嗜好の多様性を許すこと」に関しては、世界の音楽市場には優れた点が沢山あると思います。
実際にはこうした多様性は、ほかの領域ではどのように確保されているのでしょうか。気になるところです。
私はやはり、その多様性の確保については、理論や批評、メディアの言説が大きな役割を果たしているように思うのですけれども(日本では渋谷陽一さんや油井正一さんなど)。もちろん、説明変数はそれだけじゃないとは思っています。
うーむ、多様性の確保、担保ですか。
理論や批評、メディアの言説が大きな役割を果たしている、それだけではないが、という御話ですが、別の話もあります。これは例ですが、今手元に「企業ファイナンス入門講座(保田隆明)」「決算書の暗号を解け!(勝間和代)」がありまして、この両者には同じことが書かれているのがわかります。それは「監査法人には限界が、アナリストによる企業レポートにも限界が生じる」ということです。つまり非常にその企業に対して悪評、というか悪い結果のレポートや監査をした場合、そのスポンサーである企業からの依頼が途絶えてしまう。結果として悪い情報はまったく書かないか、行間を読むようなニュアンスになるか、基本的によいことしかなかない。それが企業レポートであり、会計監査である。ということです。
これらは恐らく現在のメディアに対して概ね当てはまるものではないか、と個人的には考えています。つまり雑誌、TV、ラジオ他は基本的に広告主に慮り、彼らの機嫌を損ねるようなことは書けない、というものです。これは記者クラブによる独裁的な、ある意味社会的な情報提供体制にも同じことがいえ、記者クラブにて与えられる情報、その情報元にとって非常に都合の悪いものは載せることができない(記者クラブから退会させてしまいかねない)、また記者クラブに入る場合は基本的に記者クラブの全入会者の賛同が必要であるため、新規入会者は極めて少ないクローズドな情報源存在である。これが海外からは閉鎖的な情報提供体制であると非難されています。
つまり、日本のメディアというのは非常に偏向された存在である、ということの証左でもあるわけです。
これが音楽業界においては異なる、という言説をわたしはそこまで信じられません。可能性はある、とは思いますが。余計なことを書けば干上がるぞ、と脅される(言外に)ような世界において何処まで正常な批評や理論が許されるのか。興味の出てくるところです。
そしてこれは基本エロゲ、ラノベ、漫画においても同じようにも思われます。酷評するには相当のペナルティが施される以上、どこまで確かに多様性の確保が可能か、個人的には多いに疑問に思っています。存在しないとは思えないが、果たしてどこまでそれらは可能なのか。
もしかすれば音楽における多様性の確保、というのもかなり幻想、そうでなくてもかなり信頼に値するほどのものではないのかもしれません。
とまぁこんな感じで。あとはggincさんの考える理論、批評、メディアの言説の具体例か、あるいはどのようなものなのか、という説明があればまた変わるかもしれません。
非常に興味深い指摘ありがとうございます。特に企業と報道メディアとの共依存関係については、全くその通りだと思います。詳しくは挙げませんが、アイドルや売れ筋の芸人・ミュージシャンを保護するための色々な情報戦略がありますね(たとえば、プレス枚数それ自体でオリコン一位を自動的に獲得できるようにするとか)。
批評・理論の有効性については、このまま無軌道に話すと私のほうが議論を拡散させてしまいそうですので、ひとまずここでタイプする手を止めたいと思います。
「音楽における多様性の確保」も、たまたま幾つかの要因が重なって出来ているだけですし、実のところ、まだまだ規制されてしまっているところはあります。「どこも(本質的には)同じだ」と言ってしまえば、それまでなのですね。しかしそれでは、あまり面白い視点は生まれない。私から、この先を検討するためのアイディアを提示するためには、もう少し言葉を詰めなければならないと思っています。