「コリント書第一の手紙」第13章01-13節、私家訳

 映画『愛のむきだし』祭り開催中。面白いですよ。

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 ハイライトシーンでヒロインが長々と朗じた第一コリント書のくだりが気になっていたので、書き起こしてみました。
 個人的には、『1Q84*1のふかえりが『平家物語』の安徳帝入水自殺の下りを暗唱したのに匹敵する名シーンだと思っています。これについては「文系の萌え」とタグをはっ付けられても別に構いませんが、*2そう言うのを抜きにしても、別に博学でもない登場人物に特定の古典文学の一節を吟じさせるにはそれなりの周到な準備が必要であると言う意味で、園監督はこの準備に十分成功していると思いました。
 なお、「コリント書第一の手紙」の作者であるパウロは、元パリサイ派ユダヤ教徒だったSaulが回心してPaulと名を変え、地中海沿岸を布教して回った、原始キリスト教成立期の大立者です。史実においては処刑された事実しか残っていないナザレの子イエスと違い、明確な author として名が残っている人物です。彼の書簡が新約聖書中の福音書解釈に大きな影響を及ぼしていることから、キリスト教は時に「パウロ教」と言われることもあります。さらにこの第一コリント書13章13節にある三元徳(信仰・希望・愛)は、後に教父アウグスティヌスギリシャ哲学の四元徳キリスト教の徳を比較する際に、重要な役割を果たしました。……と、雑学はこんなもんで。
 なお、日本語訳は新共同訳聖書を参照にしつつ、途中から自分で勝手にやったところもあるので、訳し間違いもあると思います。もし見つけたらご指摘ください。
 このコリント書を朗読した状態のヒロインが、その時に置かれている境遇がものすごいアイロニカルなのですが、その辺は園監督凄いな、と思います。自己言及になってるんですよねえ。

1 Corinthians, 13: 1-13.

01. I may be able to speak the languages of human beings and even of angels, but if I have no love, my speech is no more than a noisy gong or a clanging bell.
(たとえ人々の言葉、天使たちの言葉を語ろうとも、愛がなければ、わたしの言葉は騒がしい銅鑼、やかましいシンバル。)

02. I may have the gift of inspired preaching; I may have all knowledge and understand all secrets; I may have all the faith needed to move mountains-- but if I have no love, I am nothing.
(たとえ、預言する賜物をもち。あらゆる知識と奥義に通じ。必要とあれば山を揺るがすほどの信心を持ち合わせようとも。愛がなければ、無に等しい。)

03. I may give away everything I have, and even give up my body to be burned-- but if I have no love, this does me no good.
(持てる全てを他者に与えようとも。己の身を燃やし尽くそうとも。そこに愛がなければ、わたしに何の益もない。)

04. Love is patient and kind; it is not jealous or conceited or proud;
(愛は忍耐強く、情け深く。妬まず、誇らず、己惚れず。)
05. love is not ill-mannered or selfish or irritable; love does not keep a record of wrongs;
(礼を失せず、利を貪らず、怒りを抱かず。不当に扱われたことをいつまでも恨まない。)
06. love is not happy with evil, but is happy with the truth.
(そして不義を喜ばない。愛は、真実を喜ぶ。)

07. Love never gives up; and its faith, hope, and patience never fail.
(愛は、諦めないこと、信じること、希望を持つこと、耐え忍ぶこと、すべてにおいて過たず成し遂げる。)

08. Love is eternal. There are inspired messages, but they are temporary; there are gifts of speaking in strange tongues, but they will cease; there is knowledge, but it will pass.
(愛は永遠である。しかし預言は人に霊感を与えるも、廃れてしまう。異言による賜物も、いつか已んでしまう。知識は、いつかは過去のものとなってしまう。)

09. For our gifts of knowledge and of inspired messages are only partial.
(私たちの知識はしょせん断片にすぎない。預言もまたしかり。)

10. but when what is perfect comes, then what is partial will disappear.
(もし完全なるものが到来したならば、それら断片的なものは廃れてしまうだろう。)

11. When I was a child, my speech, feelings, and thinking were all those of a child; now that I am an adult, I have no more use for childish ways.
(私が幼子だったとき、わたしは幼子のように語り、幼子のように感じ、幼子のように考えていた。だが今や私は大人となり、幼子であった頃のやり方を棄てた。)

12. What we see now is like a dim image in a mirror; then we shall see face-to-face.
(私たちは今、鏡に映った朧な像を覗いている。だが来るべき時が来れば、私たちは真の像と正面から対峙することになろう。)

13. Meanwhile these three remain: faith, hope, and love; and the greatest of these is love.
(それゆえに。〈信仰〉〈希望〉〈愛〉。この3つはいつまでも残る。このうち最も大いなるものは、〈愛〉。)

おまけ:文語訳はどうなっているか

 手元に日本聖書教会の『舊新約聖書 文語訳』*3があるんですが、Wikisourceにコリント前書のデータがありました。比較するのも面白いと思いますので、引用の範囲内として対応部分だけありがたく転載させていただきます。記述は日本聖書教会のものとまったく同じでした。お持ちの方は255頁を参照してください。

13:1 たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鈸*4の如し。
13:2 假令われ預言する能力あり、又すべての奧義と凡ての知識とに達し、また山を移すほどの大なる信仰ありとも、愛なくば數ふるに足らず。
13:3 たとひ我わが財産をことごとく施し、又わが體を燒かるる爲に付すとも、愛なくば我に益なし。
13:4 愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、
13:5 非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず、
13:6 不義を喜ばずして、眞理の喜ぶところを喜び、
13:7 凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。
13:8 愛は長久までも絶ゆることなし。然れど預言は廢れ、異言は止み、知識もまた廢らん。
13:9 それ我らの知るところ全からず、我らの預言も全からず。
13:10 全き者の來らん時は全からぬもの廢らん。
13:11 われ童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。
13:12 今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり。然れど、かの時には顏を對せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし。
13:13 げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大なるは愛なり。

KJV(欽定訳聖書)の古英語も調べてみた

 キング・ジェームズ訳の聖書のテキストがネットにあったので、これもみてみました。驚いたのが、ἀγάπη〔アガペー〕の英文訳が love ではなく charity なんですよね。ラテン語訳だとcaritas〔カリタス〕。なるほど、確かにチャリティなら「性愛」とは区別しやすい。むしろ「慈善」と訳せるし、「隣人愛」に近づきますね。調べてみると面白いですね。
 KJVは、日本の聖書で言うところの文語訳に近い位置づけと考えるといいみたいで、もったいぶった英語を学ぶ際に結構役に立つと、どこかで聞いたことがあります。代わりに英辞郎で検索しても出てこない英語もあったりします。専用の辞書が必要ですね。
 それと、現代英語では bell と訳されているところが、ギリシャ語のκύμβαλον 〔クンバロン〕に近く cymbal となっています。なぜ現代英語で bell になったのか、これがよく分かりませんでした。あちらでシンバルってそんなにメジャーじゃないのかしら。

King James Version: 1 Corinthians Chapter 13
01. Though I speak with the tongues of men and of angels, and have not charity, I am become as sounding brass, or a tinkling cymbal.
02. And though I have the gift of prophecy, and understand all mysteries, and all knowledge; and though I have all faith, so that I could remove mountains, and have not charity, I am nothing.
03. And though I bestow all my goods to feed the poor, and though I give my body to be burned, and have not charity, it profiteth me nothing.
04. Charity suffereth long, and is kind; charity envieth not; charity vaunteth not itself, is not puffed up,
05. Doth not behave itself unseemly, seeketh not her own, is not easily provoked, thinketh no evil;
06. Rejoiceth not in iniquity, but rejoiceth in the truth;
07. Beareth all things, believeth all things, hopeth all things, endureth all things.
08. Charity never faileth: but whether there be prophecies, they shall fail; whether there be tongues, they shall cease; whether there be knowledge, it shall vanish away.
09. For we know in part, and we prophesy in part.
10. But when that which is perfect is come, then that which is in part shall be done away.
11. When I was a child, I spake as a child, I understood as a child, I thought as a child: but when I became a man, I put away childish things.
12. For now we see through a glass, darkly; but then face to face: now I know in part; but then shall I know even as also I am known.
13. And now abideth faith, hope, charity, these three; but the greatest of these is charity.

 RPG者では、トールキンの古英語文学研究などに詳しい方は、このKJVなども読まれたことがあるんだろうなあと思います。私はてんでド素人ですけれども。

*1:村上春樹,2009,『1Q84』1・2巻,新潮社.

*2:私は、『1Q84』は、日本語で読む必要はほとんどなかったな、と思っています。英語で翻訳された後に手に取って、英語でじっくり、時々訳文を確認するくらいで読み進めた方が感動は深かったでしょう。これを日本語で読み流してしまうのでは、あまりにも私たちにとって“近すぎる”。でも、日本語だからどうしても読み流せてしまう。今回は読んでいて、日本語で読める文学としては高水準の面白さをもたらしてくれるにもかかわらず、その感慨が終始まとわりつき、とても歯がゆい思いをしました。……ところで『1Q84』は、自分の読解力に自信のある読み手たちが前のめりになって傑作/駄作を論じるために議論を交わしています。私も、これを諸手で礼賛するかどうかには躊躇しています。しかし少なくとも私は「日本人として、ここで出ている記号、事件、構造、etc...は、当たり前で陳腐であり、従ってつまらない」というような断定でもって『1Q84』を評価するのだけは、見当違いだからやめた方がいいと感じています。

*3:

舊新約聖書―文語訳クロス装ハードカバー JL63

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*4:〔ねうはち〕

架空のカルト教団「0教会」における宮台真司の似非説教全文――映画『愛のむきだし』より

 90年代カルトの情勢にコミットした社会学者・宮台真司が、大作映画『愛のむきだし』で7分間ノーカットの説教を演じていました。
 ところが本編では、最終的な4時間版ではほとんどカット。6時間でも既に削られていたらしい。非常に残念です。
 幸いおまけDVDにノーカット版が収録されており、それを観ました。これは宮台さんが実際に即興で作り、一発収録でOKが出たものだそうです。その作りの巧みさに、私は大笑いして、あまりに笑ってしまったので全部書き起こしてした次第です。
 もちろん理屈それ自体はバカバカしいのですが、プラトンアリストテレス、カントと(あからさまな宗教家ではない大学者の)大名行列をまき散らした上で、突然聖書外典の話をもっともらしくねじ込むあたりは、なるほどいかにも新興宗教の手法らしい、手堅いやり口だと思ってしまいました。資料からどういう風に珍奇な解釈をひねり出して教義を正当化するかは、昔の(今やまともだと認められている多くの宗教を含めて)大事な作業の一つですからね。
 というわけで、宮台神父(?)のヨタ話を応援するため、スクリプト全文を貼っておきます。

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 あなた方は〈ケイヴ〉。地下洞窟に潜った状態です。
 かつてプラトンが、こういう比喩を述べています。
「われわれ人間達は、洞窟の中に居て、光を見ることがなく、光によって映し出された、壁面の影を見ているだけ」。
 みなさんも、まさしくそう言う、状態です。みなさん方の多くは、欲望のままに振る舞うことを、〈自由〉だという風に思っていらっしゃるかもしれません。欲望に近づくことが、欲望を、自由自在に叶えられることが、光に近づくことでしょうか。
 アリストテレスは……欲望や感情のことを、〈パトス〉と呼んでいます。〈パトス〉とは、これすなわち、「降りかかってくるもの」という意味です。
 雨や霰も降りかかってきます。さらに、目の前に木があったり、森があったり川があったり山があったりするということこれも〈パトス〉だという風に言います。モノも〈パトス〉。感情や欲望もパトスです。
 カントという人は、今のアリストテレスの、議論を踏まえた上で……「欲望のままに振る舞う人間は、〈自由〉の対極にある存在、全き不自由な存在だという風に言います。なにゆえならば、欲望は……性欲は、さまざまな、金銭欲や物欲は、みなさまに、降りかかってくるものです。欲望のままに振る舞えば、降りかかってくるもののままに、なってしまうということ、これすなわち、不自由そのものです。降りかかってくるものに負けるのではなく、降りかかってくるものにも関わらず、自分自身を自由自在にコントロールできること。これが、真の自由ということに、なるでしょう。
 それでは、真の自由を得たあなた方は、どこに向かえばいいのでしょうか。
 皆さんは……旧約聖書その他で、ユダヤ教キリスト教の、〈原罪〉の観念を学んでいるはずです。……しかしこれは、旧約聖書の時代に、存在した、さまざまな宗教的な観念のごく一部にしか過ぎません。
 たとえば〈原罪〉とは何ですか? エデンの園で、ルシファーすなわち悪魔の唆しに応じて禁断の果実すなわち「智慧の実」を食べてしまったということ。これが〈原罪〉の源だという風に皆さんは教わって来たはず、です。
(遠くで車両が走る音。)
 しかし、旧約の外典、すなわち、旧約聖書として纏められた話の、そのまた別の話、によれば、まったく逆のことが語られています。
 ルシファー、みなさん悪魔だという風に教わっていますが、これは「光の人」という意味です。
 たとえば、なんとかルクス、ていう風に言いますよね。ルクスとか言いますね明るさを示すために。ルクスとかルシとかいうのは、「光」という意味です。ギリシャ語で言えば、プロメテウス、「火をもたらした人」という、そういう言葉とほとんど同じ意味になります。
 すなわち、旧約の外典によれば、ルシファーは、アダムとイヴをそそのかした悪魔ではなく、むしろ、エデンの園の管理人、主宰者、であるところの、ヤーウェ。このヤーウェのもとで……単なる動物的な存在に押しとどめられていた、彼らに、智慧を授け。自分たちの置かれている状態について自覚をさせ。ヤーウェよりももっと上にある、全知全能の神に近づくように、唆したというよりも、奨励した、励ました。そういう存在だという風に、語られて、います。
 みなさんが向かうべき光。それは、欲望を自由自在に、思う存分果たすという意味での自由、ということではありません。それは全き、不自由。皆さんは自らの主人となって……ルシファーすなわち光の人の、励ましに応えなければいけません。
 さらに。この教団にいらっしゃった皆さんは……世間の、普通の方々に比べれば、むしろ欲望を存分に果たしてきた人が多いでしょう。欲望を単に断念しただけの人間は、自分が、もし、自由自在に欲望を果たせていればなあという風な、妄念を抱きがちです。
しかし、皆さんのように、ありとあらゆる……ま、邪な、あるいは猥褻で猥雑な、欲望にまみれた、人生を送ってきた方々は、むしろ……ま、「気が済んでいる」というか。こんな状態が、こんな人生が、いつまで続くんだろう。こんな欲望や、煩悩にまみれた生活が、いつまで続くんだろうと。そういう風に思ってきたはずが、そういう方々が多いはずです。
 そうしたあなた方こそまさに、光に向かうべき、資格を持っていると言う風に言えます。その意味で、みなさま方はまさに、「選ばれた存在」だと言えるでしょう。

 こんな台詞をわざわざ用意しているような、ものすごく気合いの入った映画でした。素晴しい映画です。ヤン・シュヴァンクマイエルを初めて観た時以来の強い衝撃を受けました。日本の映画にはこんな可能性があったのか。