仏教と自殺の話がのびておる――“リーチ仏教”、〈祈り〉の純粋さ、自殺衝動の特効薬

 私がむかしid:thalionさんへの私信として書いたエントリが、最近どういうわけか、コツコツとブクマを稼いでます。

高橋志臣,2007,「仏教でどう自殺を食い止めるか」『G&G,Inc.Blog』(http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070914/1189734581

 1年半前のエントリがなぜ今更……と思っているんですが、何か原因でもあるのかしら?
 ちなみに浄土宗・真宗の「極楽浄土」について言及して、「あれは違うじゃないか」とコメントしている人が居ます。ええ、その通りです。なぜなら浄土宗・真宗は、日蓮宗と並んで、仏教諸派の中でももっとも一神教的なあり方に近づいた宗教であると言えるからです。

浄土系仏教の“リーチ仏教”的性格

 ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、浄土思想というのはとても簡単(といって悪ければ、simple)な思想でして。
 あれは、「現世で一回でもいい、六字*1を唱えれば、来世は確実に極楽浄土に行ける」という教義なんですね。
 さて、ここで、“極楽浄土”というのが何であるのかが重要です。まず確認しておきたいのは、極楽浄土は、通俗的なイメージでの天国じゃありません。「何か良いところ」っていうのもピント外れ。ましてやイスラームの「緑園」でもありません。
 極楽浄土。それは、「その世界に転生すれば、確実にその生において解脱可能である(=悟れる)」という場所のことなんです。
 そもそも「往生」とは、極楽浄土に転生する、という意味です。浄土宗のロジックは、「往生して解脱する」という、二段階のプロセスを仮定した仏教なわけですよ。往生するだけじゃだめで、往生した先で悟らないといけない。そして繰り返しますが、浄土の教えは、「極楽浄土なら、必ず悟れる」と説くわけです。
「現世では悪いことをしてしまった。来世はきっと因縁によってろくでもない転生をするだろう。けれど、よくわからんが、浄土の存在を本気で信じて、一心に“なむあみだぶつ”と唱えさえすれば、自分は次こそ、悟れる資格を得られるんだ――」
 こういう理屈は、控えめに見ても、それまでの代表的な日本仏教(八宗――すなわち倶舎宗〔くしゃしゅう〕、 成実宗〔じょうじつしゅう〕、律宗〔りっしゅう〕、三論宗〔さんろんしゅう〕、法相宗〔ほっそうしゅう〕、天台宗〔てんだいしゅう〕、華厳宗〔けごんしゅう〕、そして真言宗〔しんごんしゅう〕)とはまるで違うものでした。

その祈りは愚かか、それとも純粋か

 齢29にして『八宗綱要』を著した鎌倉期の若き天才、凝念(華厳僧)は、新しく登場した浄土思想に対して、こんな辛口のコメントを残しています。

 又浄土宗教、日域広行。凡此教意、具縛凡夫、欣楽浄土、以所修行往生浄土、西方浄土縁深于此土、念仏修行、劣機特為易生浄土、後乃至成仏。

 (訳:浄土教は日本でも広く行われている。浄土教は、煩悩に縛られた凡人浄土に生まれることを願って、念仏というただ一つの行によって浄土に往生することを教える。阿弥陀仏の浄土はこの俗界と因縁が深いため、修行する能力に劣るものであってももっとも修行しやすい。能力の劣った者は、西方浄土に往生することを祈るのがもっとも易しい。往生してから後でようやく、成仏できるのである……以上、鎌田茂雄訳の翻案)

八宗綱要 (講談社学術文庫)

八宗綱要 (講談社学術文庫)

 今風に言うと、まさに上から目線なの、わかりますでしょうか。つまり、仏教は鎌倉期に入るまで「インテリのやる宗教」であり、浄土より先に禅宗の流れが出来ても、それは「戦士のたしなむ宗教」だったわけです。そして平民――能力の劣った者たち――を救済するものとしての仏教は、当時はほとんど考えられていなかったし、そういう意味での救済を真面目に考える宗教家も居なかったわけです。
 こうした仏教のインテリ的性格を厳しく批判したのが、仏教学者の鈴木大拙です。大拙は、『日本的霊性』の冒頭において、「日本的霊性は禅と仏教において芽生えたのであって、それまでの日本の宗教(神道、八宗)に、霊性と言いうるものはなかった」と断言しています。この霊性というのは、日本語に翻訳するとspiritualityですが(一時期はやりましたね)、大拙はこれを「宗教意識」と呼んでも良いと述べています。
 宗教意識、これが神道と八宗に無かったということになりますと、凝念の上から目線とはだいぶ異なる視点、ということになりますね。 

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

 さてでは、凝念の言うように浄土宗は「劣った人間がやるやさしい仏教」なのか、それとも大拙が主張するように、日本において花開いたもっとも宗教らしい宗教なのか。
 一つポイントになるのは、「往生」と「念仏」のあいだに見出される「祈り」の純粋さにあります。
 なんだか資料を追いながら文字を書くのが面倒くさくなってきたので(ここ数日で合計5万字近く書いているせいかもしれない)、細かい理屈をすっとばして言いたいことだけ言ってしまうと、浄土宗は「極楽浄土」というリーチポイントを仮定することを通じて、「救いを求めて祈る」という行為の純粋さを、ほかのどの仏教教義よりも先鋭化させた宗派であると言えるのです。
 リーチ仏教、バカにしたもんじゃありませんよ。一念発起という熟語もあるように、真摯な祈りは「ただ一度」でいいわけです。「なんまんだぶなんまんだぶ」と何度つぶやいたところで、実は浄土系の教義に照らせば、本質的な祈りではない。しかし、その本質的な祈りが一度でもできなければ、それは何万遍祈ったって往生すらかないません。
 こうした、あまり知られていない「たった一度の祈り」というロジックこそが、安易な行として知られる浄土系思想の根幹をなしている。そんな浄土系仏教の性格が、大乗仏教発生以来の伝統的な仏教に照らしてどんな正当性をもつのかという話はさておくとして、別の視点から――「祈るという形而上的行為を通じてもたらされる社会的価値」として見た場合は、どういう評価のしかたがあるのか。
 読者の中には、おそらくクリスチャンの方もいらっしゃるはずです。「仏教の中の例外」を、こういうパースペクティヴから考え直してみるのは、悪くないのではないでしょうか(より詳しくお知りになりたい方は、大拙本の第三篇「法然上人と念仏唱名」(鈴木[1944]1972: 150-94)をご覧になってください。面白いと思います。

余談――自殺衝動を食い止める規範の特効薬(という要求は、一体何を前提しているのか?)

 ところで私は、こんな風に、世の中の「(道徳)規範」の一種である仏教について調べることを、単に楽しくてやってます。少し、自分の思考を鍛える役にも立っているかもしれません。しかし、特にそれが公共性を持つべきだとは思ってません(これは、儒教キリスト教イスラーム諸派の本を読んでいる時も同じです)。
 それはなぜかというと、リベラリズムの良さを捨ててまで共同体全部に規範を導入することが、大して良いことだとは思っていないためです。悪くもないですけれどね。判断を保留しなければならない程度には、私は世界宗教の教判*2が出来てないというわけです。
 なんというか、宗教が公共の場で自殺者を救わなければならない、という、本当にその前提が妥当なのかどうかもわからないところから、そのまま自殺者を食い止められないことの苛立ちに変えてしまうのも、私はどうかと思うわけですね。
 そもそも、宗教をプラグマティックに、人間を制御する道具として捉えられるかどうか、私には大いに疑問です。「自殺したいという苦しみを取り除きたい」というのは大いなる慈悲のなせる業かもしれませんが、「日本国内の年ごとの自殺者数を減らすために宗教を活用しよう」というのは、なんだかおかしな話です。その宗教は、本当に道徳的教義なのか、それともなにか臨時国会で採決された特別法案みたいな何かなのか。私は、宗教を法的効力をもつような「特効薬」として考える発想それ自体に、難点があると思っております。今回の話のもとになった仏教トークも、実際には「そういう意識にたどり着く」ことなんか難しいに決まってる、という皮肉がそれとなくまぶしてあります。だいたい、生きる苦しさを取り除くなんて、どんな宗教を選ぼうと選ぶまいと、難しいに決まってるんです。
 え。それは思想的後退ですって? なるほど、そうかもしれません。しかし、こう考えてもみてください。あなたは、弓をうまく打ち放つのに、弦を引き絞るための十分な膂力が必要だとは、思いませんか?
 ともあれ、祈り、苛立ち、自殺衝動といった話をだらだらと続けてきたこの散漫な宗教トークを、デウスエクスマキナ的にエイヤッと昇華してくれるよい唄があります。それを紹介して、今回の再放送と注釈を〆させていただきます。。
 ご静聴ありがとうございました、Thank You.

SMILE

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*1:南無阿弥陀仏

*2:=教相判釈。厳密なテキスト批判を通じて、経典にランク付けをし、もっとも価値あるテキストは何かを選定する、仏教において重要となる作業。仏教の宗派の差とは、畢竟、この教判の差によってもたらされていると言っても言い過ぎではない。

Scoops RPG向けのアイディアメモ(罠四題ほか)

 acceleratorさんのところで、表紙問題についてコメントしました。
 そこで、補足記事でも書こうかと思ったのですが、書いているうちに綺麗にまとまりそうなアイディアが出てきたので、これは2009年03月のScoops RPGにとっておこうかな、と思います。2月号は筑波批評に投稿したものを送ったのですが、2月中に載るかはわかりません。(追記。結局、3月号になりそうです)
 前に書いたものは「文芸批評家のためのLudology入門」で変わらずですが、今書いている文の仮題は「TRPG論の論理トラップ」になりそうです。たぶん、後半には馬場秀和批判も入って来ます。

  1. 美的判断の罠
  2. エヴァンジェリストの罠
  3. アイロニストの罠
  4. 規律訓練の罠

 表紙絵問題から始めて、この4つの論理トラップを順々に抜けることで、TRPG論はより整理されたものになるだろう、というような話です。
 コンパクトに要旨だけまとまった話を数十本集めたようなものを、ScoopsRPGに送ろうと思っていたこともありましたが、今回ようやく構成アイディアが降りてきた感じです。
 表紙絵問題、面白いなあ。

 ところで私は、馬場秀和さんと私に共通する規律訓練的なプラン(つまり、ゲームデザイン的な技法の評価基準や技法、教育方法などを学ぶことによって、趣味文化としてのTRPGを育成していくようなTRPG観)というのは、すでに現代思想的にムリがあると自己批判しております。個人的に求道するならさておき、人間そんなに理性的にゲームできないって。
 むしろ、FEARが進めているような、「遊んでいるうちに、TRPGにおいて必要な運営方法が自然に身につく」ような、どちらかといえば環境管理的なデザインの方が、実践においては正しいと思っている。楽しさ、という言葉が魔法の杖として使われているのは愉快ですが、楽しさを一人一人分析すること自体が、ユーザーにとって負担になるというのは当然のことです。そしてそれは、結局回転翼さんがかつて批判した「碩学モデル」の批判とほとんど同じ立場に私も到達してしまった、ということです。
 しかし私は、ルールブックに「楽しさ」の設計を余すことなく伝えるには、FEARが提示し、使い倒しているモデルだけでは、不充分だと思っている。それは紙魚砂さんのTRPGシナリオ13分類とかを見れば自明で、FEARの「楽しさ」の伝達の巧みさは、どこまでほかのシナリオ記法で通用するかは、まだまだ論じる余地がある。
 シナリオ記法について考察するは、そのままTRPGデザインの多様性・複雑さを縮減する役に立つ。私たちがTRPGというものを受容する際、システム、シナリオ、現場でのハンドリング&プレイという3段階があるけれど、結局降りてくるので一番重要なのはシナリオデザインにこめられた具体的なデザインテクニック。
 RPG日本の鏡さんの努力を否定するつもりではないけれど、おそらくTRPGというのは「自由」という概念で切るのは少し難しくて、むしろどのようなシナリオ記法を仮定することによって「特定のデザイン」が立ち上がるのか*1の方が、鏡さんの欲しい自由の余地を確保するには重要だと思うんですよね。岡和田晃さんが、TRPGのフレーバーテキストに換喩的想像力という形で読み取っているようなことは、たとえば私たちのナラティヴな思考、文学的解釈(ガダマー的?)がどういう風に数値ゲーを数値に還元されないものに変形していくかというような議論をしていて、このようなアプローチの方が「自由」を考える上で具体的な前進をしているように思えるし、あるいはVampire.SさんがArs Magicaのシステム内にある「美点」の、「データ=シナリオフック」的なデザインの美しさを褒めていることも、デザインレベルでは的を射た議論だと思いました。(2008年のチャットにて)

「あるかもしんない」というような、余地を論じるような曖昧な議論ではなく、具体的に、どのような制約(=ルールのパーツ)が採用されることによって面白さが生まれるのか。また制約同士の関係がどのように立ち上がってくるのか。それを、システムデザイナーが事前に考えるのではなく、ゲームマスターやプレイヤーが考えて行く。
 これは大変難易度が高くて、というか、一人一人がボードゲームデザイナーの専門家になるようなもので、「そんなのユーザー個人でできるわけねーし楽しくもねーだろボケ」というのは、言われるまでもなくもちろんそうなんですが(いや私は楽しいんですが)、実際には、何も考えずに環境の中で戯れられるTRPGと、糞ゲーとも言えるような状況を自分たちの知で心地よい環境に再設計するTRPGとが、まったく同一のシステムで可能だったりするならば、それはそれでスゲエTRPGシステムじゃないかとは思います(たぶん、それは天才的なデザイナーじゃないとムリです。大半のデザイナーは、自分の技量でユーザーを喜ばせるか、自分の技量の及ばないところでユーザーのデザインテクニックを信じるかのどっちかを重視することになるのではないかと)。
 そもそも馬場秀和さんの議論って、突き詰めれば「一人一人がボードゲームデザインを学びながら、TRPGという遊びを無限に面白くしていくような秘儀に参入し、その面白さをできるだけ多くの人に理解して貰うような教育方法までかんがえるんじゃー」という話で、大変インテリ的な話としてはうなずけるんですが、それを素朴に実践するのはまず不可能ですね。そもそもボードゲームデザインって面白いの? という仮定を、馬場さんは保証仕切れてないし(実感としてはわかるんだけど、それこそ「外に向かう言葉」になってない)。
 まあ、システムレベルで自由度が高くても、デザイナーは質の高いシナリオを提供することでいくらでも追加の環境管理ができるんですけどね。ただし、それを読み上げるゲームマスターの訓練の問題がいつまでも残るので(読み上げるだけではいつまで経っても、TRPG的に面白いゲームは立ち上がらない)、難しいものです。TRPGボードゲームデザインというメディアに立脚しているために、どうしても規律訓練的(この場合、自発的学習が必要という程度の意味ですが)な要素が入り込む。そして、上達すると、規律訓練的な発言を連発して、まだデザイナーの知に戯れていたい人にとって「ウザい老害」とかになっていく。この構造、今はわりと楽しく俯瞰できるんですけど、どうにかならないもんですかね本当。
 そもそもボードゲーム的な思想というものの限界が、今TRPGを論じるにあたって試されているようにも思うんですよねー。
 と、珍しく馬場さんを論難するような話をあえてしてみました。こういう立ち位置をつくってみるのも、面白いと思って。結局Blogは、具体的な議論するなら、いつまでも静的構造を保っている論文をきっちり書いた方がよくて、ポジショニングの戯れの中で新しいものを生み出す余地を作り出していくような文章以外載せなくてもいいんじゃないかって気もするんですよ。あとは、2ch的に「>>1」になるというか、ニコ動的うp主になるというか、そういう風に断続的にカーニバルの神主になり続けることでフォーラムを確保することでしかない。まともなフォーラムが存在しないTRPG論壇でそういうことをするのはまあ有効なんですが、本当に欲しい世界はそんなんじゃないんですよねー。

*1:そこをルールブックの記述によって制御し、ある程度安定した楽しみを提示してきたのがシステムデザイナーなわけです。そしてシナリオとハンドリングの段階にまで大胆に介入して、システムデザイナーの仕事を増やすかわりに安定したゲームの楽しみを与えられるようにしたのがFEARの商品戦略と言える。これによってTRPGデザインの思想は前進したとも言える。より正確に言うと、システムコンセプトレベルよりディヴェロップメントの前進の方が大きいが。